ないながらも施そうとするハートが尊いと思うの「神社ミッションは托鉢とは全然違う・後編」

前回のエントリー

神社ミッションは托鉢とは全然違うと思うの

のつづきです( 0w0)ノ ウェーイ

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貧しい家を回って托鉢をするようにとか

特に「救ってあげる」「お布施をする大切さを教える」
そのために「お布施を出してもらう」

というようなことを釈迦尊がおっしゃるとは思えない
(ちゃろはブッディストではありませんがね(*´σー`)エヘヘ)

大義名分どころか図々しさと恩着せがましさ(押し付けがましさ)すら、
この逸話に感じるのです。

大体、釈迦尊が貧しさを、そこからくる不幸者意識から
布施をしない(できない)のを好ましくないと捉えている-
-判別しているように見受けられるではありませんか。
思い込みで抜け出せないにせよね。

慈悲の精神を持つ御方が「だから出せ」なんて!?

ウシジマくん

没後のお弟子さんたちは意図的に超人化してしまったものですから、
いろいろな逸話が存在しています。あと近現代宗教家が作り上げたりしてw

因果律とか執着とかの話をうまく駆使して、

施し(善の意味と同意)を与えた者には善が返ってくる。

だからお布施をしなさい!

貧乏なのはお金に対する執着があるから。よろしくない!

お布施の大切を知りなさい(だから出しなさい)

みたいなァハハ・・(^д^;)

この逸話、施しもらう側の理論で語っている。
しかもneedではなくてteach+take

「施す」側の気持ち、思いが全くないではありませんか!

この胡散臭さが気になったようです。

さらに決め手となったのは、この逸話の原典がどこにもないのです。
ネットであちらこちらに取り上げられてはいるものの、
出典先は記されていない。どなたも此方存じ上げない。

似たような話は見つけることができましたが、
貧しい者を救ってあげるなどという傲慢な釈迦尊は登場せず、
布施をする貧しい者もしない、できないとはなってませんでした。

逸話の真偽ははてさて?
それこそ・・・・

関です。

ちゃろ思ふ故

ちゃろ

誤魔化さず、逃避せず己の心を観察し続ける
作業を自ら課し、続けるからこそ修行は厳しい。

pureである確信なければ、托鉢もただの物乞い。
心乱れ、うしろめたさ、迷いも生じるというもの。

そんな「生き方」に対して真面目に取り組む姿を修行僧に見る。

だからこそ人は敬い、尊び
僅かながらでもと敬意を表す(姿を見せる)
=布施をするのではないのでしょうか。

そしてまた修行僧は、施した方の気持ちを実りある修行にと、
厳しくも努力を怠らないのです。

施しをする側ー受ける側という二分の関係ではなく、
感謝と敬意を分かち合う同士であるとも申せましょう

前前回のエントリー

でも書きました。

深堀しています!
自らと向き合っています!
パッカーン(ブロック外)しました!!

こうなると納得できませんか?そんな言葉を使っているのを見て、
コチラが恥ずかしくなることを。

貧しい不幸者という思い込みが
お金やお布施を出さない、出せない、出させない。

なるほど、逸話通りに読めば全くその通り!
beliefや固定観念など心理学的思考、知識を使えば
なおさらです、ハイ。

一生お金に困らない生き方 の見出しにある

「神社ミッションが托鉢と同じと考えよ」

コレだけは言わせ頂こう!

違います(*✧×✧*)キュピーーン!!!!!!

ましてや、施(実践)した方が

・リターンを期待して

・心屋さんが言うてるから

というお心持ちなら尚更です。

真偽の沙汰は置いといて、この逸話に心屋氏は

「先出しすることで豊かさが回ってくる」

と、意味付けをしました。

拙なるちゃろとしては、

ないながらも施す、施そうとするマインド。
相手のための、人のためにというハート、お気持ちは尊い

と捉えました。

ないけれど出すとか、先出しすると金銭的に豊かになるとかより、
ハート、マインドの尊さも豊さの一つとしてフォーカスを当てたくて。

ボロは着てても心の錦
でも、お金は大事だよ〜

つーか!!

たけお