カテゴリー別アーカイブ: 思考

坐禅は心と脳と精神のデフラグなり

11日土曜日は、今年初めての坐禅セッションに行って参りました。
わたしの場合、とくに習得する目的は何もなしに、個人の感覚的なもので
昨年からなるたけ間を空けずに通うことにしておるのです。

関連記事;神奈川県稲村ヶ崎 月読寺坐禅セッションにてココロのお稽古をしました

行き帰りの時間と運賃まで含めて考えてみても、我ながらよく続いているな
と、感心しております。



自宅にて坐すより住職の法話とご指導が頂ける点はココロの
整体さながら。午前の部とお昼の食禅に参加するだけで十二分に
精神・魂が静かに収まる位置に収まる。そんあ気がするのです。

特定の宗教を信仰はしておりません。教義に縛られるのは好みませんし、
禅道という言い方で広大にて無量なる思想として捉え、接し、
実践することがわたしには相応しいと考えるからです。

訳もなく、神経がざわつく時は大抵、しばし自然に触れていないか、深い禅の境地に
置かれていないのであります。道場は鎌倉にございますので、海山共にある土地柄。
さらに良くもなるのでしょうね。

この日のあとは、坐禅(瞑想)の深度が今までにない程に。
実に気持ちが良くなりました。

また、あれやこれやとたくさんのやらねば並びに時間がない!にて自らを
焦らせていたり、思い浮かぶ思考に対してやたら正誤、善し悪し評価判断をしている
ものだなと気がつかされました。

さらに(説明し難いのですが)オレオレと自分で申し差しているオレとは誰ぞ?
という疑問が湧き上がりまして、問い質せば「オレ」とは、私ことちゃろではない。
いつの間にやら出来上がった思考フィルターから落とされ、どこからとも
誰のものとも判らぬのにやってくる勝手な思い浮かび=観念の声。

お主は「脳みそ」さんではないか

と行き着ました。言い換えると脳(思い浮かび、観念)と自分は同一では
なさそうだなと当たりがついたのです。ここまで来ると危なさをあなたは
感じるでしょうけれど・・・

日頃忙しく過ごしている内に行き場なく彷徨うココロ。
その収まりどころに仕舞うお稽古としてやってはいかがでしょうか。
お勧め致しますよ。

不本意な生き方は本当に自己選択の末なのか

前回のエントリー

を読み返してみたら、結構、駄文でございました。
それでも意外と好評でして。時間がかかった分これ幸い。
そんこんなでつづきのようなエントリーを書いてみます。

自己受容の足りなさ、自己否定の強さから不本意な生き方を
してしまうという理論が私、ちゃろさん界隈では実しやかに
呟かれております。

加えて昨今のアドラー心理学ブームも手伝ってか、
生き方は「自分で選択している」というお考えの方もいらっ
しゃいます。わたしは詳しく学んでないので、理解もせずに
語ってしまいますが今回は、生き方の「自己選択」について。
お付き合い下さい。



幼少期における生存戦略

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子どもは親の愛を一心に求めます。ここでは「庇護を求める」
と、言い換えましょう。心理学だけでなく、教育学等々でも
よく申されていることですが生命に関わるからです。

生き残る為には危害が及ぶもの、不快、不穏なものを
避けねばならない。しかし、到底大人と同じ知恵や経験は
持っておりませんので対処ができません。
一番近しい親に寄りかかざるを得ないのです。

つまり「庇護」を得られないのは生命の危機とともに最大の恐れ。
親は、まるで神のような存在ということにもなりましょう。

機嫌を損ねたり、意にそぐわないことをして怒られたり、無視されたり、
もっと酷く打たれたりしては一大事。生き残るはずで親の側にいながら、
生命に関わってしまう状況を作ってしまっては本末転倒。

かと申して、出て行く訳にも参りません。ですから顔色を伺うように
したり、自己犠牲の下に喜ぶようなことばかりをしたり、
悲しむのではないかと思案したり、反対に気を引くために、
離れないようにといつも負担を掛けたり・・・。

あの手この手を試してみて。これが妥当という手法つまり、
周辺環境(家庭・親)に合わせ、その子ならではの「生存戦略」を
身につけていく必要性が出る訳です。

ミスタッチを自己選択と呼ぶ酷

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さて、ここで一考致しましょう。子どものときにあなたも
生存戦略を身につけております。果たして、あなたが思いつき、
試し、「選択」したのでしょうか。

先述の説明ですと、そのようにも読めますよね。確かに、どうすれば
いいかなと考えはしたでしょうし。実際、Try and errorしたですから。

しかし、今現在の不本意な人生を歩くに至る程、あなたの積極的かつ
自覚を持って選択したと言えるのでしょうか。

わたしは疑問でなりません。幼少時代に○○の実行すれば危害を
加えられない、嫌な思いをしないと、本当にあなた一人だけで、
最初から思いつき、身につけたにしては、あまりにも
出来過ぎではないでしょうか。

ある不快刺激に対してオートメーションに働く「不適切な適応」プロ
グラムと化している生存戦略
を自己決定で組み込んだなんて・・・
子どもがですよ。(当時は)「必要な適応」プログラムでも、
積極的に自己選択、意思決定したと申すのは無理がある。

不本意な生き方を選んでしまう姿は、計算機を前に気が付かないで
+キーを押しながら「2倍にならない」と嘆いているようなもの。
2倍したい、2倍にしたいのにと言いつつ、目で見て確認しながら
+キーをひたすら押し続けるなんてことあるのでしょうか。

わたしからすると生存戦略の自己選択説は、ミスタッチも自己選択ですよと
同義語扱いしているみたいでならないなのです。

従順にして本人に意思なし

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自己選択というのならば、今となっては不要などころか弊害と言っても
過言でないプ程のプログラムなのですから、すぐにでもあなたはアンイン
ストールするなりアップデートできるのではないのでしょうか。

わたしは自我吸着一体化させる何かがあったと考えております。
大げさに言えばマインドコントロール。無意識に、さも端から自分のもの、
あなた自身が選んだ、あなたなんだと思い込ませるような仕業です。

あなた自身が気がついていないのは無理もない何かとは。
そうです。親からの教え。しつけ、教育、指導、子育て、言葉かけ、
親自身が持つ信念、世の中や人の見方、イデオロギーなどなどを総合したもの。
わたしはこれを「掟」と呼ぶことにしております。

「○○だったら、いい子(悪い子」「○○だったら、してあげる」
「あなたはダメ」「○○はいけない事」「世の中とは○○」

など

いくらあなた自身が思いつきとTry and errorがあったとしても、
子どもの意思だけの自己選択で不本意な生き方までに至りはしない。

生存戦略+掟=プログラム

本人の明瞭な意思はなく、ただ子どもの持つ素晴らしい
「素直さ」によりインプット

自我吸着一体化を成し、特定の刺激に対して自動動作。

して、今現在の認知の歪みや人生の息苦しさを生み出す不本意な生き方

の完成です。これを恩恵(ちゃろの言う肯定的副産物)があるから
自己選択だと(特に他者が)言うにはあまりにも酷ではありませんか。

ちゃろ思ふ故

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あなたが悪いのではありません。周りのせいにしてもやりきれません。
その程度の人や環境だったのですから。インプットされいるどころか今や
ガン細胞よろしく自我と一体の「掟」をどうするか。

他所こそが自己選択です。不肖・ちゃろ、唱えます。

 

掟はあなたではありません。

あなたは掟ではありません。

 

過剰な生存戦略を施さなくても、あなたは生き残れます。
なぜなら、恩着せがましくなく、ギブアンドテイクでもない。

あなたを無条件にそのままで対峙してくれる世界があるのだから。
愛がありますから。

ちゃろの疾患テレビ病の治療について考える

讀賣新聞に編集手帳というコラムがございまして、
1週間前の12月3日土曜日掲載の中に「テレビ病」なる
言葉を見つけました。その言葉から思う事がございましたので
お話致します。お付き合いのほどを。

ちゃろはテレビ病に罹っている

AC

あなたは「テレビ病」って何よ?と思われたでしょう。
テレビばかり見ている人を指すことばではなく、イラストレー
ター山藤章二さんの著書『ヘタウマ文化論』(岩波書店)において

(テレビに)映ったときには必ず何かに面白いことを言わないと、
無能、芸なしと思われるんじゃないかと・・・

そのような不安になることを病気に例えた造語です。

この造語の意味にハッとなりました。そうだ、わたしは「人」を前にした
ときや意識したときに必ず何か言わないといけないと常に思っている
表面的には沈黙が怖い、喋ることが楽しい、ウケてもらえるのが嬉しい
が理由だけれども、深い意識下には

「何もできないわたしは恥ずかしい」

「ダメな自分なのだから喋ってないと」

という強迫観念から行動している。
正にテレビ病の症状だと気がついたのです。

自己低評価とモデルにメスを

AC

病人たるわたしは、自己評価の低さと勝手なあるべき姿=モデルに
もがいている。ですから楽しいのに苦しい。嬉しいのに辛いのです。
そんな葛藤に心は落ち着かず、精神は満ち足りること決してありません。

「刹那に精魂尽くす」と申せばカッコイイのですが、瞬間瞬間の
安堵を点とし、線になるのですから常時戦闘態勢。それは絶えない
渇望から緊張を強いているに他なりません。

省みると人を別れた後次第に、自覚し始める疲労感は相当のもの。
アルコールの勢いで正論という名の愚痴をこぼしている一部の
サラリーマンのエネルギー浪費の方がマシではないかと思うくらいで。

本物の病気になる-もしかしたらすでに軽い精神神経疾患になっているの
かもしれませんが-くらいなら、良い加減に落ち着きたいと願うなら
治療の必要性はあるでしょう。

テレビ病の根本的な原因たる己自身への羞恥心と面白いわたしなら
価値あり意識にメスを入れるのです。

面白くするのは好ましい。けれども、お笑い芸人さんやTVタレント
さんはお仕事でなさっている。だから、ちゃろが心穏やかにせずしてでも、
同じようにしなくてもいいのだよ。

緩やかに居るだけでも十分。同じ時、処で穏やかに居られる人たちが
いたとしたら、何もならないではありませんか。恥ずかしい人でも
能なしでも、無価値でもないのです。

記憶に上りはしないけれど、むかしむかし誰かに叩き込まれた
モデルと低い自己評価を自分自身そのものだと思い込んでしま
った
に過ぎないと認め、受容し、ゆるすのがよろしかろうと。

ちゃろ思ふ故

AC

テレビ病のお陰で周りの多くの人を魅了し、楽しませて来たことも否めません。
それよりも心穏やかにがいい、落ち着いて人と会えるようにしたい
のなら治療の必要=やめるという選択をしましょうということですね。

あなたがわたしと異なり「ウケることが肚からの願い」
「生き甲斐を感ずる」のなら、ぜひともお続けになる方が良いと申せましょう。
自己顕示欲は誰しもありますし、楽しく笑い合う雰囲気を作れるなんて
見事なスキルですよ。

くれぐれもご注意。テレビ病を「悪」として理由付けて不必要(治療)と
判断しないで欲しい。今までの自分に結局、ペケをつけてしまうので
罪意識は残るし、一番大切な自分自身への「ありがとう」と「お疲れさま」
が言えなくなりますから。

LINEブログのお蔭で内なる天邪鬼と向き合えました

いつの頃からでしょうか。流行りや皆が持っている、やっていると知ると
熱が急に冷めてしまう。それまでは興味はあるにもかかわらずです。

LINEブログをはじめませんでした

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ごく最近ですと新しくLINEさんが始めたブログサービス。
思いついた時に手軽にアップできるそうで、早々に始めた友人も

「やってみたら?」「とてもいいよ」

と勧めてくれました。

SNSで更新ポストの頻度ならびに記事そのものを見てみますと、確かに
使い勝手は良さそう。フェルトアートに限定した記事を発信するには
適当と思えたものですから興味が湧いてきました。

ところが今週あたりから「はじめました」「はじめました」
次々ポストされているではありませんか。これらを見て

「こんなにやっているなら、ンピコピンだぜ」

と、あっという間に興味は枯れてしまいました。

物書きを生業としたり、こうしたネットサービスに関わるお仕事を
なさっているなら試さないことにはお話にならないでしょうから
手を出すことは理解できますけれど・・・。

本当に自ら選んで決めたのか

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どうも他人様が群がるような対象に嫌悪や嫉妬心を抱くというより、
わたしの内にへそ曲りと申しましょうか「あまのじゃく」という鬼がおるようで。

群がる様子、右へ倣えの人たちと見えてしまうと「同じになるもんか」という気になってしまうのです。鬼が言います。「自ら選んで決めたという我(われ)があまりにも薄くね」と。

わたしの申す「やらない」理由が皆がやっているからでは同等かもしれませんが、多くがやっている、流行を自己選択の理由にしたくない。わたしは○○だからやる(やらない)とキッパリ言い切りたい。

「多くと同じ」の気持ち悪さ

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さらに申しますとファッション。音楽、TVプログラムなどなど「流行だから」で選んだり致しません。街中を歩けばダーク系統の同じスタイル。同じブランドロゴバッグを持ち歩き、イケてるその音楽を聴き、ライブに出かけ、TVドラマやタレントの話で盛り上がっている。

発言力のある方がメディアを通して一言言えば、こぞって同じ物も買い、同じ諸行をする。影響を受けたどころではないではありませんか。わたしは気が進みません。

他人様のやることにいい悪いをつけるのではなく、あくまで感覚の話。わたしという存在が多数に飲み込まれて、自身で気がつかない内に我が消えている。同質化、皆一緒とは何でしょう。わたし、ちゃろの「存在」がなくなるに等しい。気持ち悪くて仕方がない。ジブリアニメ「紅の豚」のキャッチフレーズよろしく言うなら「カッコイイとは多くにならないことさ」ことなのですが。

ちゃろ思ふ故

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矛盾ではなく「自分は好きだ」「やってみたい」と自覚あれば、流行りだろうが、多くの人がいてもやれるくらいのフレキシビリティーは持ち合わせているつもりです。

しかし、カッコよいこととは到底思えません。あまのじゃくに向き合って、取り込まれる怖れから我を守ろうと内側で騒いでいるのが見えました。興味の熱を瞬間冷却する装備もね。

他人様と異なるズレた存在であるからこそ「わたし」でございます。

本音に意識を向けてたら自己の攻撃性に気づいてしまったの

昨晩とあるブログを拝見していましたら気がついたことがありました。
わたしは無自覚なのですが、今回はdisり記事にかなり近いと思います。
決して逃げではないことで前提に申し上げますと、以前から
「読まれないブログ」、「自己記録日記」で現在進めていること。
disりが主旨のエントリーではありません。

ごくごく一部の読者さまに不快な思いをさせても毎度ながら
悪しからず!←一応言っておくw



薄っぺらな善語りに目眩がする

チキンラーメン

巷で多く見かける食の安全と「病気」が関連するというテーマのブログでした。
記事としてはインスタント食品について。
自宅での実験画像を交えながら書かれたもの。

ご自身の意見、お考えですからヘイトや暴力的でないなら、
ちゃろさんとしてはブログに何を書こうと構わない

と、アタマでは思っていたのですが・・・不愉快。
ちょっとした知識をベースに自宅実験の画像ーインスタント麺と
ただの麺のそれぞれの茹汁を冷蔵保管した後のものーを
お子さんの表情も加えて、アップしているのです。

ブログタイトルに健康に過ごすとかならまだしも「病気」という
ワード使っているものですから、さもそのインスタント食品が
病気に繋がる、悪いものだと言いたいように読んでしまいます。

ちゃろの底の浅さも否めませんが、こうした安全、安心−かなり極端に
言い換えますと「善」−に関する事柄。それを不快な画像と逆に多くが
好ましく感じる(とくにお子さんを使った)画像を比較して使う。

文章もはっきりした表現でなく、やんわり。さらに箇所箇所で逃げ口上。
ソース元も載せていない。

面白半分に不安感・不信感を煽る。自己関心事を
「わかりやすく正しいことを読者に教えてますよ〜」みたいな
その薄っぺらさにちゃろは気に入らなかったのです。

扇動的善人とする認知の歪み!?

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さて、本題。(前説、長いよ!)この手のペッラッペラな
善語りに対して気に入らない、嫌いという感情とと共に
攻撃性が自分の中にある!と気がついたのです。

食の安全や雑じりっ気のないものを食べる方がいいという論点には
異を唱える気はさらさらございません。むしろ、実践してはいないながら
ちゃろさん、興味があるくらいです。

偽善が鼻につく?とんでもない!!

善に重きがあるなら、何もやらないよりいいではありませんか!
むしろおやりなさいな!!と思っているくらいです。

内容、扱ったテーマよりも「正しいことを証明したのであーるエッヘン!」
というナルシズムなのに、鵜呑みがちの人、何かにつけ不安感で
グラグラしてしまう人、自分の頭で考えているつもりになっている人に
対し

「善である」

「正しいのはこれだよ〜」

「わかりやすいでしょう」

「面白いでしょう」

と何気なく、さらりとー繰り返しますがわたしからすると全然ー
押し付ける態度。加えて誰もがわかりやすい悪(不快)を表立てて比較した上で
自己善を通そうとする「扇動的善人」にちゃろは怒りの反応を示したのです。

衝動的で感情的でもあると思います。正しいとも思っていません。
嫉妬、やっかみなのか??反抗心!?

きちんと見れているの?ちゃろさんよ〜

と言われれば、自身でもはっきりとはわかりません。認知の歪みの
可能性はあるし、過去にあった何かが原因でオートスイッチが入る。

アドラー心理学的に言うなら、怒ることに「目的」がある。
それこそ逆にちゃろの善を押し通したい。
「オマエちゃうやん!」といちゃもんつけて気持ち良くなりたい。

もう一丁!脳機能で言うなら報償系に操られているのかもしれません・・・
認め難いから沈め込んでたりしてなァハハ・・(^д^;)

分析・判断すれば、人はなんとでも言いようはあるものですから。

ちゃろ思ふ故

他人の扇動的善言動に不快感と嫌悪感を持ち、ゆるしの精神ではなく
攻撃性が発動する"私"がいるのだな〜と知った。

忘れないようにここ置いておきたかったのです。一方、
汚れた感情として少し前なら自己嫌悪し責めたであろうちゃろが
全く己を責めず、否定しなかったことにも気がつきました

たまゆら

直そうとか、いい人、カッコ良くなろうパターンのラッピングペーパーで
「欲」を包まず、持たずにその時に済んでいたからかもしれません。
まいっかのココロ〜〜。

この攻撃性、不愉快に感ずるのもちゃろの一面。あるがまま。
うーむ、優しくない。慈愛のココロが足りないってな Σ(´Д`)ハッ!!

他人様にもこういう眼差しでいられるとええんちゃうか?www

 

知らんけど。