カテゴリー別アーカイブ: 気づき

愚かしい本音に罪なし 見える化して大切なことに気がついた【逆算手帳】

早くも年明けて10日になろうとしています。うかうかしていられません。
昨年購入して手付かずだった逆算手帳を静々を埋めております。

2017年は手帳でワクワクする未来を手に入れように参加しました【セミナー】

やりたい事を100挙げたウィッシュリストを作成したよ【逆算手帳】

いい感じに進んでいたのですが、10年逆算シートという
ページに来ましたら、書いては消して書いては消して。
どうもしっくり来ない。

5年先どころか、3年先すらここ暫く見通しが立てないほど
浮き沈みの激しい時を過ごしておりましたので無理もなし。
また思っているより自分の中に具体性を持っていないのもあったのも
原因のようです。

ストレングスファインダーのコーチである西素直さんから

「ヴィジョンは記憶できない」

と再三言われていたのも益々納得です、ハイ。

図々しいが本音に蓋をする

ここで引っかかっていても埒があかないので、おおまかに書いいて
本年分の逆算シートへと移ることに致しました。その時に

(これって本当に本音なのか)

と、疑問にも似た思いが浮かびました。

すぐに坐禅を組んで、暫しインターバル。
どうもしっくり来ないのは「こうするといいなぁ」「ああなるといいなぁ」
がどうやら、頭で思い浮かんだ願いー例えばテレビや雑誌などで知らぬ内に
影響を受けた結果の理想・偶像などーだったのです。

さらに手帳を埋めさえすれば、うまくこと運ぶだろうと思い進めて
しまったことも。肚(丹田とか女性なら子宮)と対峙していなかったのが
いけませんでした。

肚の願いたる本音では「お勤めしたくない」でも「お金は欲しい」という
矛盾というより、図々しいにもほどがある思いがあったりと
自分でマジマジとそんな思念を見たくなかった。
そんな都合いいことあるかという点に引っかかっていました。

裁きなしで本音と真っ向お見合い

そこで、どんな愚かで恥ずかしい思いでもいいから、
○×をつける裁きをせず、残りページのあるノートに書き出してみようと、
逆算手帳は一度止めてみたところ

「仕事は辛いものである」という旧観念とわたし、ちゃろさん的仕事観である
「わたしの満足、納得なしは仕事でなし」がぶつかっていたことに
気がついたのです。

そして、お金という物体のために何を四苦八苦しているのやら。
お金がないという落胆。使えないという不満。なくなったらどうしよう
という不安。それらのストレス、怒り、辛苦にまみれて、
求めるもの、こと、人について真正面向かず、気も思考も回らなく
なっているではないかともわかったのです。

さらに書き出し、追求してみればなんのことはありませんでした。
図々しいでも、恥ずかしいことでもなかった。わたしはただ快適で
いたかっただけだったのです。

そして、苦痛に顔を歪め、泣いている人たちに何らかの形でアプローチしたい。
なのに、そのわたし自身が苦痛に顔歪めている場合かともわかり、否、
苦痛でいる必要がないではないかとの考えに至ったのです。

すると「ぶぅわあ」っとが湧いて来たではありませんか。書籍や逆算手帳で言う
ワクワクですね。自己満足でいいじゃない。快適を追求し、とことんやって、
し尽くせばいい。それが自他にとって「希望」という名のものになるかも。

豊かさや自己信頼、好きな人への慈しみを持てる、大袈裟にせよ
「愛」だなぁとの想いにもつながりました。

ちゃろ思ふ故

本年の逆算シートページがサクサクと埋まっていきましたので、
10年シートの方も近々埋まることでしょう。

快適と怠惰・堕落との相違が判別つくかが正直心配ではありますが
「なごみ」というキーワードが浮かびましたので「ぶぅわあ」と「自己満足」とを
セットで愛の人・ちゃろの在り方を進めていこうと決めました。

本音の見える化にけしからんはなし。むしろ、出してしまった方がいいのかなと
此度、学びました。それに逆算手帳は埋めるのが目的ではないしw

=今年は誕生日向けにと公開しました=

ほしいものリスト
そっとワタシに1tsp(*´σ​ー`)エヘヘ

固定リンク: http://amzn.asia/1kNLCDK

どうぞよろしくお願い奉ります!

歳末には来年のやりたいより今年のやってないを見てみ

やりたいことを100個リストにしよう。
反対に、したくないことを上げてみよう。

オススメがありまして、わたしもやってみましたが、
あることに気がついてしまいました。

やりたい、したくないの前に「やってないこと」があるんじゃね?
iPhoneのアプリを覗いてみましたら、ありましたありました。

あいや~

なぜ、やっていないのか?理由を明らかにしてみます。

自転車の前後タイヤとホイールの交換

タイヤの磨耗が目につくようになりましたので、
費用を準備しておこうとの思いで残しておきながら、
すっかり先延ばし。挙句、

自転車屋さんに見てもらってわかったのですが、
ホイールに寿命が来ていて、ベアリングが欠けているとか・・・。
どうりでギーギー音がする訳だ。

事故にはつがらないのをいいことに、自転車を買い換えるまで
引っ張ろうかとも考えて、そのままです。

ニューヨークについて調べる

2020年ブルックリンで東京オリンピックを観る
という夢がありまして、そのため滞在するには
どうしたらいいのかと。結局、書店で立ち読み終了w

ルームシューズの新調

3年くらい履きっぱなしで、いい加減に変えたいなと思っておりました。
UNIQLOさんで販売しているものがたいへん気に入っておりまして、
それにすると決めているのに・・・実行していません。

緊急性と高からず、安からずの微妙価格との2点が至らない理由です。

ビジョンの絵を描く

将来なりたい、やりたいのビジョンですが
人は詳細に記憶ができないので、想起するにせよ曖昧になるのです。

なので、早々に絵や画像で具体的にしておかねばなりません。
では、なぜにやり残しているのかと考えてみますと、ちゃんと取り組みたい、
完璧さを求めている

佐々木正悟さんの提唱していた「偽善グズ」なるものです。とほほ。

学びをまとめる

こちらは人生における今までの体験、読書、勉強など諸々の
「学び」の集大成をつくろうと思い立ったものです。

メンタルの落ち込みとトラブルがありながらの3月には一応の
まとめは終えております。

それからがこうでもない、ああでもないとゆらゆらとして
考えが定まることがなく、続きができない状況です。良くも悪くも。

自分のトリセツづくり

自分自身がよくわからなくなるのでwwわたしは好まない言い方ながら
「自分軸」のような取扱説明書があると良くね?とばかりに掲げたのです。

先の「学びをまとめる」と一緒に進めることなので、
着手していないのは無理もなしですが。

ちゃろ思ふ故

やっていない理由

  1. 差し迫るほどの緊急性がない。困ることがない。
  2. したいことが大きすぎて漠然
  3. 必要か否かでなく購入価格で判断してしまう
  4. 完璧主義(偽善グズ)
  5. 思考やマインドがビシッと定まってない

ですね。

以上からするとちゃろさんは

  • 具体性というか実感が必要ということ。それは気分がいいとか、好きな色とか進んでいるという「感覚」です。
    目に見えるラジオ体操のカードに押すハンコ的な記録だと
    完璧主義からくる義務感が負担になりますので、丁度いい按配に
    配慮が要るなとわかりました。
  • 金額、お金に重きをおかず、必要性や心に聞く。収入が少ない上に借金返済があってヤバイと頭によぎり、
    余程でないと優先的に買おうとしない。でも、結局はコンビニで
    お菓子を買っていたりして・・・
    ユニクロさんのルームシューズくらいならいけるのにね。

今後の対策に活用します。

セミナー参加前、すでに「決める信じる行動する」をしていたちゃろさん

セミナーに参加したことで「決める」「信じる」「行動する」の
必要性を学びました。思い返してみたら、わたしにとって大きな
「決・新・行」をしておりました。それも二つ。

お付き合いください。



フェルトアート個展のカンパを募った

個展

フェルトアートの個展を開催した際に、移動や材料など
経費が心もとないなと感じました。アルバイトしようかなと
思い浮かんだものの、そうそう1dayというのに出会えません。

それでも、何とかする、お金手に入れると「決めました」
わたしが単独個展をする。それも人生初となれば、
お金は集まると「信じて」。むしろ、信じられたという方がしっくりくる程に。

不思議ですよね。そうしたら思い切って、イベントページやSNSに

「カンパ大歓迎」

と告知していました。後悔とか、怖れは全くなし。妙な罪悪感や
「成功させないヤバい」という重たい義務感も。

ただ有難く受け取ろうという気持ちだけになりました。おかげさまで
カンパは集まり-それも普段から仲間だなんだの口にしない人たちから-ました。

「喜び」をお返ししたく新作の返礼オリジナルのフェルトドールを
作り上げるまでに至ったのです。

セミナー参加費を賄うポスト

img_2411

前回のエントリー

には、ただ参加して、自己解釈ながら学んだことを書きました。

実はお恥ずかしい話、開催日の3日前までセミナー費用が
賄えずにおったのです。

あきらめよう・・・でも、年末最後は出ることにしていたし・・・
でも、費用が・・・と思考がブランコのように行ったり来たり。
挙句、疲労感が出てくる始末、

「これではアカン」

「自分を認めはじめ、喜びが循環する生き方が、
もうできる(してもいいと許可する)のやから」

恥は重々承知の上。参加費工面したろと「決め」まして、
ちゃろの思いを聞けば、どなたか手を差し伸べてくれると「信じ」ることに。
これまたSNSにポスト=行動してみました。

そうしたら直前も直前で、アルバイトのお誘いや貸して下さる方が
現れたではありませんか。工面をして下さった方は、たいへん興味を
持ってくださり、お会いした時には「自分も参加してみたい」とまで
おっしゃって下さいました。

アルバイトのお歳を下さった方は「よかったね」とメッセージをくれた
だけでなく、工面してくれた方へもお礼を伝えていたとか。有難いですね。

ちゃろ思ふ故

img_2491

両方ともお金のお話。あなたにとっては夢実現の為の決める、
信じる、行動するではないから、違和感が有るやも知れません。

加えて、行動面におけるやり方も適当かどうか、わたし自身
わかりません。わたしに信用とバリューがあるなら、既に手元に
お金はあったでしょう。

しかし、川が上流から下流に流れるがごとく、さらさらと
浮かび上がったことを「決・進・行」したのは事実。嘘ではありません。
今までなら、プライドや一眼を気にして、恥やうしろめたさ、また成功しても
負い目を抱えていたでしょうから。

そんな不快や恐れを超えて、求めるものが手に入り、やりたい事がやれた。
その点に着目して下さい。。そして、あなたが

「あのチャラチャラ野郎のちゃろさんが出来たんなら」

「オレなんか簡単にやれるんじゃね?」

「私もやってみよう」

と、実践に繋ながる「勇気のバトン」が渡ったのなら幸いです。

不本意な生き方は本当に自己選択の末なのか

前回のエントリー

を読み返してみたら、結構、駄文でございました。
それでも意外と好評でして。時間がかかった分これ幸い。
そんこんなでつづきのようなエントリーを書いてみます。

自己受容の足りなさ、自己否定の強さから不本意な生き方を
してしまうという理論が私、ちゃろさん界隈では実しやかに
呟かれております。

加えて昨今のアドラー心理学ブームも手伝ってか、
生き方は「自分で選択している」というお考えの方もいらっ
しゃいます。わたしは詳しく学んでないので、理解もせずに
語ってしまいますが今回は、生き方の「自己選択」について。
お付き合い下さい。



幼少期における生存戦略

0903c7a724e7fc4793431245cf0f6ccb_s

子どもは親の愛を一心に求めます。ここでは「庇護を求める」
と、言い換えましょう。心理学だけでなく、教育学等々でも
よく申されていることですが生命に関わるからです。

生き残る為には危害が及ぶもの、不快、不穏なものを
避けねばならない。しかし、到底大人と同じ知恵や経験は
持っておりませんので対処ができません。
一番近しい親に寄りかかざるを得ないのです。

つまり「庇護」を得られないのは生命の危機とともに最大の恐れ。
親は、まるで神のような存在ということにもなりましょう。

機嫌を損ねたり、意にそぐわないことをして怒られたり、無視されたり、
もっと酷く打たれたりしては一大事。生き残るはずで親の側にいながら、
生命に関わってしまう状況を作ってしまっては本末転倒。

かと申して、出て行く訳にも参りません。ですから顔色を伺うように
したり、自己犠牲の下に喜ぶようなことばかりをしたり、
悲しむのではないかと思案したり、反対に気を引くために、
離れないようにといつも負担を掛けたり・・・。

あの手この手を試してみて。これが妥当という手法つまり、
周辺環境(家庭・親)に合わせ、その子ならではの「生存戦略」を
身につけていく必要性が出る訳です。

ミスタッチを自己選択と呼ぶ酷

b902754352fe78edadb0ea14c6261dd3_s

さて、ここで一考致しましょう。子どものときにあなたも
生存戦略を身につけております。果たして、あなたが思いつき、
試し、「選択」したのでしょうか。

先述の説明ですと、そのようにも読めますよね。確かに、どうすれば
いいかなと考えはしたでしょうし。実際、Try and errorしたですから。

しかし、今現在の不本意な人生を歩くに至る程、あなたの積極的かつ
自覚を持って選択したと言えるのでしょうか。

わたしは疑問でなりません。幼少時代に○○の実行すれば危害を
加えられない、嫌な思いをしないと、本当にあなた一人だけで、
最初から思いつき、身につけたにしては、あまりにも
出来過ぎではないでしょうか。

ある不快刺激に対してオートメーションに働く「不適切な適応」プロ
グラムと化している生存戦略
を自己決定で組み込んだなんて・・・
子どもがですよ。(当時は)「必要な適応」プログラムでも、
積極的に自己選択、意思決定したと申すのは無理がある。

不本意な生き方を選んでしまう姿は、計算機を前に気が付かないで
+キーを押しながら「2倍にならない」と嘆いているようなもの。
2倍したい、2倍にしたいのにと言いつつ、目で見て確認しながら
+キーをひたすら押し続けるなんてことあるのでしょうか。

わたしからすると生存戦略の自己選択説は、ミスタッチも自己選択ですよと
同義語扱いしているみたいでならないなのです。

従順にして本人に意思なし

abe25c8e16e5a677401a680a7567a1a2_s

自己選択というのならば、今となっては不要などころか弊害と言っても
過言でないプ程のプログラムなのですから、すぐにでもあなたはアンイン
ストールするなりアップデートできるのではないのでしょうか。

わたしは自我吸着一体化させる何かがあったと考えております。
大げさに言えばマインドコントロール。無意識に、さも端から自分のもの、
あなた自身が選んだ、あなたなんだと思い込ませるような仕業です。

あなた自身が気がついていないのは無理もない何かとは。
そうです。親からの教え。しつけ、教育、指導、子育て、言葉かけ、
親自身が持つ信念、世の中や人の見方、イデオロギーなどなどを総合したもの。
わたしはこれを「掟」と呼ぶことにしております。

「○○だったら、いい子(悪い子」「○○だったら、してあげる」
「あなたはダメ」「○○はいけない事」「世の中とは○○」

など

いくらあなた自身が思いつきとTry and errorがあったとしても、
子どもの意思だけの自己選択で不本意な生き方までに至りはしない。

生存戦略+掟=プログラム

本人の明瞭な意思はなく、ただ子どもの持つ素晴らしい
「素直さ」によりインプット

自我吸着一体化を成し、特定の刺激に対して自動動作。

して、今現在の認知の歪みや人生の息苦しさを生み出す不本意な生き方

の完成です。これを恩恵(ちゃろの言う肯定的副産物)があるから
自己選択だと(特に他者が)言うにはあまりにも酷ではありませんか。

ちゃろ思ふ故

img_3701

あなたが悪いのではありません。周りのせいにしてもやりきれません。
その程度の人や環境だったのですから。インプットされいるどころか今や
ガン細胞よろしく自我と一体の「掟」をどうするか。

他所こそが自己選択です。不肖・ちゃろ、唱えます。

 

掟はあなたではありません。

あなたは掟ではありません。

 

過剰な生存戦略を施さなくても、あなたは生き残れます。
なぜなら、恩着せがましくなく、ギブアンドテイクでもない。

あなたを無条件にそのままで対峙してくれる世界があるのだから。
愛がありますから。

ちゃろの疾患テレビ病の治療について考える

讀賣新聞に編集手帳というコラムがございまして、
1週間前の12月3日土曜日掲載の中に「テレビ病」なる
言葉を見つけました。その言葉から思う事がございましたので
お話致します。お付き合いのほどを。

ちゃろはテレビ病に罹っている

AC

あなたは「テレビ病」って何よ?と思われたでしょう。
テレビばかり見ている人を指すことばではなく、イラストレー
ター山藤章二さんの著書『ヘタウマ文化論』(岩波書店)において

(テレビに)映ったときには必ず何かに面白いことを言わないと、
無能、芸なしと思われるんじゃないかと・・・

そのような不安になることを病気に例えた造語です。

この造語の意味にハッとなりました。そうだ、わたしは「人」を前にした
ときや意識したときに必ず何か言わないといけないと常に思っている
表面的には沈黙が怖い、喋ることが楽しい、ウケてもらえるのが嬉しい
が理由だけれども、深い意識下には

「何もできないわたしは恥ずかしい」

「ダメな自分なのだから喋ってないと」

という強迫観念から行動している。
正にテレビ病の症状だと気がついたのです。

自己低評価とモデルにメスを

AC

病人たるわたしは、自己評価の低さと勝手なあるべき姿=モデルに
もがいている。ですから楽しいのに苦しい。嬉しいのに辛いのです。
そんな葛藤に心は落ち着かず、精神は満ち足りること決してありません。

「刹那に精魂尽くす」と申せばカッコイイのですが、瞬間瞬間の
安堵を点とし、線になるのですから常時戦闘態勢。それは絶えない
渇望から緊張を強いているに他なりません。

省みると人を別れた後次第に、自覚し始める疲労感は相当のもの。
アルコールの勢いで正論という名の愚痴をこぼしている一部の
サラリーマンのエネルギー浪費の方がマシではないかと思うくらいで。

本物の病気になる-もしかしたらすでに軽い精神神経疾患になっているの
かもしれませんが-くらいなら、良い加減に落ち着きたいと願うなら
治療の必要性はあるでしょう。

テレビ病の根本的な原因たる己自身への羞恥心と面白いわたしなら
価値あり意識にメスを入れるのです。

面白くするのは好ましい。けれども、お笑い芸人さんやTVタレント
さんはお仕事でなさっている。だから、ちゃろが心穏やかにせずしてでも、
同じようにしなくてもいいのだよ。

緩やかに居るだけでも十分。同じ時、処で穏やかに居られる人たちが
いたとしたら、何もならないではありませんか。恥ずかしい人でも
能なしでも、無価値でもないのです。

記憶に上りはしないけれど、むかしむかし誰かに叩き込まれた
モデルと低い自己評価を自分自身そのものだと思い込んでしま
った
に過ぎないと認め、受容し、ゆるすのがよろしかろうと。

ちゃろ思ふ故

AC

テレビ病のお陰で周りの多くの人を魅了し、楽しませて来たことも否めません。
それよりも心穏やかにがいい、落ち着いて人と会えるようにしたい
のなら治療の必要=やめるという選択をしましょうということですね。

あなたがわたしと異なり「ウケることが肚からの願い」
「生き甲斐を感ずる」のなら、ぜひともお続けになる方が良いと申せましょう。
自己顕示欲は誰しもありますし、楽しく笑い合う雰囲気を作れるなんて
見事なスキルですよ。

くれぐれもご注意。テレビ病を「悪」として理由付けて不必要(治療)と
判断しないで欲しい。今までの自分に結局、ペケをつけてしまうので
罪意識は残るし、一番大切な自分自身への「ありがとう」と「お疲れさま」
が言えなくなりますから。