タグ別アーカイブ: 気づき

ベキネバ理想像で苦しむのはご両親の望みだからではありませんか

先日弊ブログにてベキネバ娘のお話を致しましたが↓

ありたいイメージを抱えてタラレバではなくベキネバ娘になっていませんか

自分の抱えた理想像は別に問題はございません。
よろしくないのは「信ずる」が故に自縄自縛しお疲れモードのまま
進んだり、イメージから外れた自分にペケ(自責と自己否定)をつけること
だけであります。


 

マゾヒスト?ナルシスト?コメディアン?

理想像になるかどうかは誰も知り得ない。わかるのはそれこそ、
神様なるお方か青色のタヌキ型スーパーロボットのツールを使うくらいでしょう。

ところが

「やれば叶っちゃうんだよね〜」

と、自分で決めて、信じた(ここまでもよき)。な・の・に、
起こすアクションをネバベキと「掟」-具体的にはタスクとか目標とも
言いますけれどね-と設定しておきながら、

クリアしなかったから、出来ない、私ってダメって・・・。おいおい。
自分を正誤判断するようになってしまうのは、いささか妙ではありませんか。
「コメディー」と称したの、そのような流れからなのです。

自分で決めたのに自分に罰っするなんて、掟化してしまったのもありながら、
そもそも理想像は自分の意志で決めた、求めたのになぜ。疑問でなりません。
(趣味の方は、ご遠慮なく。ちゃろはそんなあなたを明確に肯定します)

わたし自身にもかなりの高い理想像がありまして、思い浮かべれば
気分も良いし、反対に苦しくイライラが募りました。なぜなら、
眼前にあるのにいつまで経っても届かないのですから。
ナルティシズム的妄想かと気持ちが沈んだことだってございます。

理想像はあなたの望みって本当?

近頃よく使います

「肚からの声」
「それ(自己の意志たる理想像)って本当!?」
という言葉を用いまして問い、振り返ってみましたところ。
意外な事に気がつきました。それはもう天啓の如く、降ってきたのです、ハイ。

こうであるベキネバ理想像は、両親が望んだ我が子たるわたしの姿。
息子や娘であるあなたにこうあって欲しい、ああなって欲しいという
望みの姿=理想像であるのを望む。あなたはこうあるベキだという親の意志。

つまり両親の欲求に過ぎなかったのです。両親という大人の一方的な
自己満足を満たしたいだけにあなたに向けられたイメージ。それを息子や
娘という子どものあなたは知らぬ間に思い込まされた。

親の望みにも関わらず、人として、あなたの正しいあり方が「理想像」
として刷り込まれて、信じてしまったのです。

もちろん、両親もあなたも、かく言うわたしも果たしてどれがどうなのか混乱したまま。愛だの教育だのと子育てに自己欲求を持ってきているから。
厄介かつ面倒極まりありません。

人にはそのまんま力があるとブログを休んだ月曜日に思う

 

日曜日から急にお腹の調子が激変したので翌日、
会社を休んで病院へ行くとウィルス性胃腸炎とのこと。

一気に腸へと入り込んだそうで、吐き気はなかったのに
下しまくったのはそのせいらしい。

体にとって「悪い」を感じれば、ちゃんと体外へ出すものなんだなぁと感心した。

「自分は悪い」なんて、自ら目くじらを立て、
矯正してやるとの無茶までしなくてもいいのだ。

深夜0時の闇の中、久しぶりにちゃろは泣いたんだ【エッセイ】

どーん!と胸を突かれるとはこういうことなのだろう。
嗚咽する程、泣いてしまった。熱い涙が線になって流れるほどに。

このところ毎日、交際相手とLINEで話をしている。

昨晩の話。

深夜0時に近づき

「そろそろ寝ないと」

と、わたしのことを気遣ってくれるメッセージ。

もっと話をしたいだろうに・・・。

いかんせん、わたしが睡眠不足により体調、パフォーマンスが
祟りやすいのを知っているのだ。

「だなだな」

わたしも、いつも通りの返し。

すると、

「愛されているから」

「近くにいるからではなくて」

「ちゃろから愛されているから安心」

・・・。

月並みな言葉で言えば衝撃。
もっと相応しい表現があるはずなのだが、その時に出てこなかった。

とにかく、体の上からでも下からでもなく。
正面からでも後ろからでもない。なのにどーんと、
貫かれたような感覚が体内を走ったのは紛れもない。

同時に心地の良い感覚がパアッと広がる。
するとに間も無く、目から涙が浮かんで来た。

その旨をあの子にLINEで告げ、おやすみなさいとの挨拶で閉じた。

なんだろう、この感覚。嬉しいだけでは表現しきれない。
まるで憑き物が落ち、傷が癒え、マインドは優しいぬくもりに
包まれながらも、気力はみなぎる。懐かしささえ感じる。

そして、体にもエネルギーが充実。それら全てを含めた感覚だ。

遅れて脳が状態を自覚する。すると!

目から次々どころか、まるで塞き止めていた川が
決壊するかの如く、止めどなく涙が流れ出していた。
もう声を出ずして泣かずにはいられなかった。

振り返れば今までのこのわたしときたら、
相手のために良かれと思ってやったことは裏目裏目に出た。

会いたいというので、電車で数時間ゆられて会いに行けば
しばらくすると「甘えてダメになる」とか言われる。

ワイドショー程度の内容の話をしている最中、突然!激怒されたこともあった。
恨まれたり、嫌われもした。

違うんだ、違うんだと思っても、相手の感情は収まらず。
たとえ伝えたとしても

「そんな訳ない」「そんなこと(言葉)が出る訳ない」
「いいなんて思う方がおかしい」
「そのくらいわかるでしょ!普通。機微がない」と。

わたしの考えや想いは伝わらない。

何が悪いのか、いけなかったのか?さっぱりわからない。
ただ、傷つけてしまったのだなと、とても悲しくなった。

後悔もし、自責でいっぱい。

きっと人の心や気持ちがわからないんだ。
そうか、愛することができないんだ、わたしは・・。

そんな風に思って生きるようになっていた。

最終的には別れ際に嘘をつかれ、あまりのショックに
一過性難聴と失語、そして鬱に。

わからない、わからない・・・どうすればいいの?
愛ってなんなの?優しさって?

それからというもの、恋するような感覚が起きると、
フラッシュバックが起き、恐怖と息の詰まりで心身が震えるようになったのだ。

「愛されているから」

そんな言葉が、よもや生きているうちに聴けるとは。
それも今、一番大好きなになった(なれた)人からだ。

あの子に好かれよう、目の前ではカッコよくいよう、男らしくしよう
と、全く思っていなかった。今までのまんま、ちゃろのままを通していた。
そのままのわたし。

その効果か。年またぎに交際の申し出をする時に
フラッシュバックも恐怖による震えも起きなかった。

わたしは甲斐性がないし、男前でも、懐が広くも、優しい訳ではない。
もちろん「愛」なんて知らない・・・なんて、見下してもない
距離や時間、会う回数でなく、ただただ傍にいるかのように
わたしの想いと気持ちはあの子に向けていよう!

あの子が心から喜び、自分を好きになるような
ハート型のメッセージを投げ続けさせて貰おうと思っていただけだった。

なのにキャッチして、投げ返してくれた。
近くにいるからといった「条件」でなく、
「ちゃろから」、わたしだからというではないか。
ただ在るだけのわたしで「愛されている」と。
「安心」というワードまでついて。

(愛してくれたのは、あの子の方なんだ)
なのに・・・。

うおんうおん泣いた。泣かずにはいられない。

「認められた」「伝わった」「受け入れられた」そして
「愛せた」「愛することが出来たんだ、わたし」
そんな数々の言葉とやっと報われた、解放感なる安心に包まれながら

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セミナー参加前、すでに「決める信じる行動する」をしていたちゃろさん

セミナーに参加したことで「決める」「信じる」「行動する」の
必要性を学びました。思い返してみたら、わたしにとって大きな
「決・新・行」をしておりました。それも二つ。

お付き合いください。



フェルトアート個展のカンパを募った

個展

フェルトアートの個展を開催した際に、移動や材料など
経費が心もとないなと感じました。アルバイトしようかなと
思い浮かんだものの、そうそう1dayというのに出会えません。

それでも、何とかする、お金手に入れると「決めました」
わたしが単独個展をする。それも人生初となれば、
お金は集まると「信じて」。むしろ、信じられたという方がしっくりくる程に。

不思議ですよね。そうしたら思い切って、イベントページやSNSに

「カンパ大歓迎」

と告知していました。後悔とか、怖れは全くなし。妙な罪悪感や
「成功させないヤバい」という重たい義務感も。

ただ有難く受け取ろうという気持ちだけになりました。おかげさまで
カンパは集まり-それも普段から仲間だなんだの口にしない人たちから-ました。

「喜び」をお返ししたく新作の返礼オリジナルのフェルトドールを
作り上げるまでに至ったのです。

セミナー参加費を賄うポスト

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前回のエントリー

には、ただ参加して、自己解釈ながら学んだことを書きました。

実はお恥ずかしい話、開催日の3日前までセミナー費用が
賄えずにおったのです。

あきらめよう・・・でも、年末最後は出ることにしていたし・・・
でも、費用が・・・と思考がブランコのように行ったり来たり。
挙句、疲労感が出てくる始末、

「これではアカン」

「自分を認めはじめ、喜びが循環する生き方が、
もうできる(してもいいと許可する)のやから」

恥は重々承知の上。参加費工面したろと「決め」まして、
ちゃろの思いを聞けば、どなたか手を差し伸べてくれると「信じ」ることに。
これまたSNSにポスト=行動してみました。

そうしたら直前も直前で、アルバイトのお誘いや貸して下さる方が
現れたではありませんか。工面をして下さった方は、たいへん興味を
持ってくださり、お会いした時には「自分も参加してみたい」とまで
おっしゃって下さいました。

アルバイトのお歳を下さった方は「よかったね」とメッセージをくれた
だけでなく、工面してくれた方へもお礼を伝えていたとか。有難いですね。

ちゃろ思ふ故

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両方ともお金のお話。あなたにとっては夢実現の為の決める、
信じる、行動するではないから、違和感が有るやも知れません。

加えて、行動面におけるやり方も適当かどうか、わたし自身
わかりません。わたしに信用とバリューがあるなら、既に手元に
お金はあったでしょう。

しかし、川が上流から下流に流れるがごとく、さらさらと
浮かび上がったことを「決・進・行」したのは事実。嘘ではありません。
今までなら、プライドや一眼を気にして、恥やうしろめたさ、また成功しても
負い目を抱えていたでしょうから。

そんな不快や恐れを超えて、求めるものが手に入り、やりたい事がやれた。
その点に着目して下さい。。そして、あなたが

「あのチャラチャラ野郎のちゃろさんが出来たんなら」

「オレなんか簡単にやれるんじゃね?」

「私もやってみよう」

と、実践に繋ながる「勇気のバトン」が渡ったのなら幸いです。

ちゃろの疾患テレビ病の治療について考える

讀賣新聞に編集手帳というコラムがございまして、
1週間前の12月3日土曜日掲載の中に「テレビ病」なる
言葉を見つけました。その言葉から思う事がございましたので
お話致します。お付き合いのほどを。

ちゃろはテレビ病に罹っている

AC

あなたは「テレビ病」って何よ?と思われたでしょう。
テレビばかり見ている人を指すことばではなく、イラストレー
ター山藤章二さんの著書『ヘタウマ文化論』(岩波書店)において

(テレビに)映ったときには必ず何かに面白いことを言わないと、
無能、芸なしと思われるんじゃないかと・・・

そのような不安になることを病気に例えた造語です。

この造語の意味にハッとなりました。そうだ、わたしは「人」を前にした
ときや意識したときに必ず何か言わないといけないと常に思っている
表面的には沈黙が怖い、喋ることが楽しい、ウケてもらえるのが嬉しい
が理由だけれども、深い意識下には

「何もできないわたしは恥ずかしい」

「ダメな自分なのだから喋ってないと」

という強迫観念から行動している。
正にテレビ病の症状だと気がついたのです。

自己低評価とモデルにメスを

AC

病人たるわたしは、自己評価の低さと勝手なあるべき姿=モデルに
もがいている。ですから楽しいのに苦しい。嬉しいのに辛いのです。
そんな葛藤に心は落ち着かず、精神は満ち足りること決してありません。

「刹那に精魂尽くす」と申せばカッコイイのですが、瞬間瞬間の
安堵を点とし、線になるのですから常時戦闘態勢。それは絶えない
渇望から緊張を強いているに他なりません。

省みると人を別れた後次第に、自覚し始める疲労感は相当のもの。
アルコールの勢いで正論という名の愚痴をこぼしている一部の
サラリーマンのエネルギー浪費の方がマシではないかと思うくらいで。

本物の病気になる-もしかしたらすでに軽い精神神経疾患になっているの
かもしれませんが-くらいなら、良い加減に落ち着きたいと願うなら
治療の必要性はあるでしょう。

テレビ病の根本的な原因たる己自身への羞恥心と面白いわたしなら
価値あり意識にメスを入れるのです。

面白くするのは好ましい。けれども、お笑い芸人さんやTVタレント
さんはお仕事でなさっている。だから、ちゃろが心穏やかにせずしてでも、
同じようにしなくてもいいのだよ。

緩やかに居るだけでも十分。同じ時、処で穏やかに居られる人たちが
いたとしたら、何もならないではありませんか。恥ずかしい人でも
能なしでも、無価値でもないのです。

記憶に上りはしないけれど、むかしむかし誰かに叩き込まれた
モデルと低い自己評価を自分自身そのものだと思い込んでしま
った
に過ぎないと認め、受容し、ゆるすのがよろしかろうと。

ちゃろ思ふ故

AC

テレビ病のお陰で周りの多くの人を魅了し、楽しませて来たことも否めません。
それよりも心穏やかにがいい、落ち着いて人と会えるようにしたい
のなら治療の必要=やめるという選択をしましょうということですね。

あなたがわたしと異なり「ウケることが肚からの願い」
「生き甲斐を感ずる」のなら、ぜひともお続けになる方が良いと申せましょう。
自己顕示欲は誰しもありますし、楽しく笑い合う雰囲気を作れるなんて
見事なスキルですよ。

くれぐれもご注意。テレビ病を「悪」として理由付けて不必要(治療)と
判断しないで欲しい。今までの自分に結局、ペケをつけてしまうので
罪意識は残るし、一番大切な自分自身への「ありがとう」と「お疲れさま」
が言えなくなりますから。