タグ別アーカイブ: 自己受容

セミナー参加前、すでに「決める信じる行動する」をしていたちゃろさん

セミナーに参加したことで「決める」「信じる」「行動する」の
必要性を学びました。思い返してみたら、わたしにとって大きな
「決・新・行」をしておりました。それも二つ。

お付き合いください。



フェルトアート個展のカンパを募った

個展

フェルトアートの個展を開催した際に、移動や材料など
経費が心もとないなと感じました。アルバイトしようかなと
思い浮かんだものの、そうそう1dayというのに出会えません。

それでも、何とかする、お金手に入れると「決めました」
わたしが単独個展をする。それも人生初となれば、
お金は集まると「信じて」。むしろ、信じられたという方がしっくりくる程に。

不思議ですよね。そうしたら思い切って、イベントページやSNSに

「カンパ大歓迎」

と告知していました。後悔とか、怖れは全くなし。妙な罪悪感や
「成功させないヤバい」という重たい義務感も。

ただ有難く受け取ろうという気持ちだけになりました。おかげさまで
カンパは集まり-それも普段から仲間だなんだの口にしない人たちから-ました。

「喜び」をお返ししたく新作の返礼オリジナルのフェルトドールを
作り上げるまでに至ったのです。

セミナー参加費を賄うポスト

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前回のエントリー

には、ただ参加して、自己解釈ながら学んだことを書きました。

実はお恥ずかしい話、開催日の3日前までセミナー費用が
賄えずにおったのです。

あきらめよう・・・でも、年末最後は出ることにしていたし・・・
でも、費用が・・・と思考がブランコのように行ったり来たり。
挙句、疲労感が出てくる始末、

「これではアカン」

「自分を認めはじめ、喜びが循環する生き方が、
もうできる(してもいいと許可する)のやから」

恥は重々承知の上。参加費工面したろと「決め」まして、
ちゃろの思いを聞けば、どなたか手を差し伸べてくれると「信じ」ることに。
これまたSNSにポスト=行動してみました。

そうしたら直前も直前で、アルバイトのお誘いや貸して下さる方が
現れたではありませんか。工面をして下さった方は、たいへん興味を
持ってくださり、お会いした時には「自分も参加してみたい」とまで
おっしゃって下さいました。

アルバイトのお歳を下さった方は「よかったね」とメッセージをくれた
だけでなく、工面してくれた方へもお礼を伝えていたとか。有難いですね。

ちゃろ思ふ故

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両方ともお金のお話。あなたにとっては夢実現の為の決める、
信じる、行動するではないから、違和感が有るやも知れません。

加えて、行動面におけるやり方も適当かどうか、わたし自身
わかりません。わたしに信用とバリューがあるなら、既に手元に
お金はあったでしょう。

しかし、川が上流から下流に流れるがごとく、さらさらと
浮かび上がったことを「決・進・行」したのは事実。嘘ではありません。
今までなら、プライドや一眼を気にして、恥やうしろめたさ、また成功しても
負い目を抱えていたでしょうから。

そんな不快や恐れを超えて、求めるものが手に入り、やりたい事がやれた。
その点に着目して下さい。。そして、あなたが

「あのチャラチャラ野郎のちゃろさんが出来たんなら」

「オレなんか簡単にやれるんじゃね?」

「私もやってみよう」

と、実践に繋ながる「勇気のバトン」が渡ったのなら幸いです。

不本意な生き方は本当に自己選択の末なのか

前回のエントリー

を読み返してみたら、結構、駄文でございました。
それでも意外と好評でして。時間がかかった分これ幸い。
そんこんなでつづきのようなエントリーを書いてみます。

自己受容の足りなさ、自己否定の強さから不本意な生き方を
してしまうという理論が私、ちゃろさん界隈では実しやかに
呟かれております。

加えて昨今のアドラー心理学ブームも手伝ってか、
生き方は「自分で選択している」というお考えの方もいらっ
しゃいます。わたしは詳しく学んでないので、理解もせずに
語ってしまいますが今回は、生き方の「自己選択」について。
お付き合い下さい。



幼少期における生存戦略

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子どもは親の愛を一心に求めます。ここでは「庇護を求める」
と、言い換えましょう。心理学だけでなく、教育学等々でも
よく申されていることですが生命に関わるからです。

生き残る為には危害が及ぶもの、不快、不穏なものを
避けねばならない。しかし、到底大人と同じ知恵や経験は
持っておりませんので対処ができません。
一番近しい親に寄りかかざるを得ないのです。

つまり「庇護」を得られないのは生命の危機とともに最大の恐れ。
親は、まるで神のような存在ということにもなりましょう。

機嫌を損ねたり、意にそぐわないことをして怒られたり、無視されたり、
もっと酷く打たれたりしては一大事。生き残るはずで親の側にいながら、
生命に関わってしまう状況を作ってしまっては本末転倒。

かと申して、出て行く訳にも参りません。ですから顔色を伺うように
したり、自己犠牲の下に喜ぶようなことばかりをしたり、
悲しむのではないかと思案したり、反対に気を引くために、
離れないようにといつも負担を掛けたり・・・。

あの手この手を試してみて。これが妥当という手法つまり、
周辺環境(家庭・親)に合わせ、その子ならではの「生存戦略」を
身につけていく必要性が出る訳です。

ミスタッチを自己選択と呼ぶ酷

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さて、ここで一考致しましょう。子どものときにあなたも
生存戦略を身につけております。果たして、あなたが思いつき、
試し、「選択」したのでしょうか。

先述の説明ですと、そのようにも読めますよね。確かに、どうすれば
いいかなと考えはしたでしょうし。実際、Try and errorしたですから。

しかし、今現在の不本意な人生を歩くに至る程、あなたの積極的かつ
自覚を持って選択したと言えるのでしょうか。

わたしは疑問でなりません。幼少時代に○○の実行すれば危害を
加えられない、嫌な思いをしないと、本当にあなた一人だけで、
最初から思いつき、身につけたにしては、あまりにも
出来過ぎではないでしょうか。

ある不快刺激に対してオートメーションに働く「不適切な適応」プロ
グラムと化している生存戦略
を自己決定で組み込んだなんて・・・
子どもがですよ。(当時は)「必要な適応」プログラムでも、
積極的に自己選択、意思決定したと申すのは無理がある。

不本意な生き方を選んでしまう姿は、計算機を前に気が付かないで
+キーを押しながら「2倍にならない」と嘆いているようなもの。
2倍したい、2倍にしたいのにと言いつつ、目で見て確認しながら
+キーをひたすら押し続けるなんてことあるのでしょうか。

わたしからすると生存戦略の自己選択説は、ミスタッチも自己選択ですよと
同義語扱いしているみたいでならないなのです。

従順にして本人に意思なし

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自己選択というのならば、今となっては不要などころか弊害と言っても
過言でないプ程のプログラムなのですから、すぐにでもあなたはアンイン
ストールするなりアップデートできるのではないのでしょうか。

わたしは自我吸着一体化させる何かがあったと考えております。
大げさに言えばマインドコントロール。無意識に、さも端から自分のもの、
あなた自身が選んだ、あなたなんだと思い込ませるような仕業です。

あなた自身が気がついていないのは無理もない何かとは。
そうです。親からの教え。しつけ、教育、指導、子育て、言葉かけ、
親自身が持つ信念、世の中や人の見方、イデオロギーなどなどを総合したもの。
わたしはこれを「掟」と呼ぶことにしております。

「○○だったら、いい子(悪い子」「○○だったら、してあげる」
「あなたはダメ」「○○はいけない事」「世の中とは○○」

など

いくらあなた自身が思いつきとTry and errorがあったとしても、
子どもの意思だけの自己選択で不本意な生き方までに至りはしない。

生存戦略+掟=プログラム

本人の明瞭な意思はなく、ただ子どもの持つ素晴らしい
「素直さ」によりインプット

自我吸着一体化を成し、特定の刺激に対して自動動作。

して、今現在の認知の歪みや人生の息苦しさを生み出す不本意な生き方

の完成です。これを恩恵(ちゃろの言う肯定的副産物)があるから
自己選択だと(特に他者が)言うにはあまりにも酷ではありませんか。

ちゃろ思ふ故

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あなたが悪いのではありません。周りのせいにしてもやりきれません。
その程度の人や環境だったのですから。インプットされいるどころか今や
ガン細胞よろしく自我と一体の「掟」をどうするか。

他所こそが自己選択です。不肖・ちゃろ、唱えます。

 

掟はあなたではありません。

あなたは掟ではありません。

 

過剰な生存戦略を施さなくても、あなたは生き残れます。
なぜなら、恩着せがましくなく、ギブアンドテイクでもない。

あなたを無条件にそのままで対峙してくれる世界があるのだから。
愛がありますから。

ちゃろの疾患テレビ病の治療について考える

讀賣新聞に編集手帳というコラムがございまして、
1週間前の12月3日土曜日掲載の中に「テレビ病」なる
言葉を見つけました。その言葉から思う事がございましたので
お話致します。お付き合いのほどを。

ちゃろはテレビ病に罹っている

AC

あなたは「テレビ病」って何よ?と思われたでしょう。
テレビばかり見ている人を指すことばではなく、イラストレー
ター山藤章二さんの著書『ヘタウマ文化論』(岩波書店)において

(テレビに)映ったときには必ず何かに面白いことを言わないと、
無能、芸なしと思われるんじゃないかと・・・

そのような不安になることを病気に例えた造語です。

この造語の意味にハッとなりました。そうだ、わたしは「人」を前にした
ときや意識したときに必ず何か言わないといけないと常に思っている
表面的には沈黙が怖い、喋ることが楽しい、ウケてもらえるのが嬉しい
が理由だけれども、深い意識下には

「何もできないわたしは恥ずかしい」

「ダメな自分なのだから喋ってないと」

という強迫観念から行動している。
正にテレビ病の症状だと気がついたのです。

自己低評価とモデルにメスを

AC

病人たるわたしは、自己評価の低さと勝手なあるべき姿=モデルに
もがいている。ですから楽しいのに苦しい。嬉しいのに辛いのです。
そんな葛藤に心は落ち着かず、精神は満ち足りること決してありません。

「刹那に精魂尽くす」と申せばカッコイイのですが、瞬間瞬間の
安堵を点とし、線になるのですから常時戦闘態勢。それは絶えない
渇望から緊張を強いているに他なりません。

省みると人を別れた後次第に、自覚し始める疲労感は相当のもの。
アルコールの勢いで正論という名の愚痴をこぼしている一部の
サラリーマンのエネルギー浪費の方がマシではないかと思うくらいで。

本物の病気になる-もしかしたらすでに軽い精神神経疾患になっているの
かもしれませんが-くらいなら、良い加減に落ち着きたいと願うなら
治療の必要性はあるでしょう。

テレビ病の根本的な原因たる己自身への羞恥心と面白いわたしなら
価値あり意識にメスを入れるのです。

面白くするのは好ましい。けれども、お笑い芸人さんやTVタレント
さんはお仕事でなさっている。だから、ちゃろが心穏やかにせずしてでも、
同じようにしなくてもいいのだよ。

緩やかに居るだけでも十分。同じ時、処で穏やかに居られる人たちが
いたとしたら、何もならないではありませんか。恥ずかしい人でも
能なしでも、無価値でもないのです。

記憶に上りはしないけれど、むかしむかし誰かに叩き込まれた
モデルと低い自己評価を自分自身そのものだと思い込んでしま
った
に過ぎないと認め、受容し、ゆるすのがよろしかろうと。

ちゃろ思ふ故

AC

テレビ病のお陰で周りの多くの人を魅了し、楽しませて来たことも否めません。
それよりも心穏やかにがいい、落ち着いて人と会えるようにしたい
のなら治療の必要=やめるという選択をしましょうということですね。

あなたがわたしと異なり「ウケることが肚からの願い」
「生き甲斐を感ずる」のなら、ぜひともお続けになる方が良いと申せましょう。
自己顕示欲は誰しもありますし、楽しく笑い合う雰囲気を作れるなんて
見事なスキルですよ。

くれぐれもご注意。テレビ病を「悪」として理由付けて不必要(治療)と
判断しないで欲しい。今までの自分に結局、ペケをつけてしまうので
罪意識は残るし、一番大切な自分自身への「ありがとう」と「お疲れさま」
が言えなくなりますから。

自分が嫌いだからこそ思考と意思決定は止めないようにするのがいいと思うの

思うところをホイホイとエントリーにしつつ、現実では
行動で語れていないのが遺憾でございます。ちゃろです。

が!?次第にいい感じで、良き点も好ましからざる点も
「自分」を受け入れ出して、しっくり来始めております。

今までは心(本音)と体と頭が三位一体ではなく、いい時でも、
いずれかの二位一体でした。頭でこうした方がいい(せん方がええ)
からというので体は動きとして反応するのですが、心は
ムムム・・・なんて感じだったのです。



本音と汚れた自分を眺めて

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そのようになったのはどうも自分の中にある思うこと、
抵抗ありつつも本音を少しづつ出すようになったからでしょう。

例えば反対意見、自分の見解とは違うということを述べる。
見る人が見たら批判や悪口になっているのかも知れませんが
ァハハ・・(^д^;)

そもそも自分の意見が特定の誰かと違う、そうは思わない
というのはいけないこと?違うよ!おかしいよ!という感情は悪??
そう決めているのはどこの誰でしょうか。

マイナスな言葉を出してしまい((しまった!やっちゃたと))
凹む程度ならまだしも、自己叱責を始めてしまうのは?

そう!自分自身だったのです。てっきりちゃろ以外の誰かさんが
ダメだよ、そんなの!とか変だよね?それって!言っているのかと
勘違い(思い違い?)していたのですよ、ハイ。

自分がどんな悪口、陰口を言ってしまおうが、ブログやSNSで
disってしまおうが、オススメされた本、食べ物、服などが
あろうとも気に入らなければ拒否しようが、とある人のいいところ
なんて見ずに嫌いなら嫌い・・・と眺める

そうしたら、否定的・ネガティブ・ダークサイドにある自分
や本音が乾いたスポンジに、水が吸い込んでいくみたいに

丸ごとの私でもいいな〜〜!!

とスゥー収まったんですね。ゆるせていたことに気がつきました。

これぞ「本音が黒い?黒くても良くね!?」の心境。
自己弁護ではありませんよ(*ゝω・)b

本音が己を尊び孤高なる者にする一筋の光

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意識高い系の高尚かつ頭のいい「正しい人たち」は、

気分が悪くなるから

自分に跳ね返るから

とたいへん素晴らしいことを仰います。さすが心が整い、賢い、
健やかなる方々はご立派でございますな(‘-‘*)(,_,*)(‘-‘*)(,_,*)
間違いでは決してありません。

ただ、その正しい人たちと同じ意見、見解でないと
(無自覚にせよ)ならないとは、ちゃろは思えません。
そんなこと思ってませんでしたか?

思考停止〜〜。自己判断、自己選択、意思決定というものが
なさ過ぎるではありませんか!!もっと言うなら自分自身が自分として、
限りある時間、この世に現れたのにかわいそう(ノ◇≦。)

皆が皆同じレベルで正しい(強い、目覚めた、自己肯定した)訳がないのに。
さらに正しい人に合わせたばかりに、自分を責めて、なじって、いじめる。
なんて悲しい。

飛躍した意見ですが、そんなことをしてしまうくらいなら、
いらないのは自分自身ではなく、立派な友達や仲間、メンターです。

とりまでもいい。ならば自身が自分の友達、仲間、メンターになる方がいい。
自分を好きになる(受け入れる)というのはこういうことじゃあないかなぁ〜。

孤独、ひとりの価値です。=寂しい、=かわいそうな人なんてのは、
どこかで植えつけられた観念になりません。群れなす中から少しズレて
見るのもよろしいかと思います。

ちゃろ思ふ故

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多くの人が影響力のある人、著名人、専門家が言ったから、
私もYESまたはNOとなってしまうのはアホ←\(`o'”) コラコラ

本音を聞いてない、思考しない究極のめんどくさがり。
かつ自分を慮ってない人間と言っても過言ではない
ひとりで居られない者が複数人で居られる訳がない。

自分(孤独)を尊び、醜い本音も清き思いも混在した心。
明晰であろうとなかろうと己で判断・選択・決断する・できる。
そして病人なら病人なりの、怪我人なら怪我人なりの、
もちろん健康なら健康な人の!その人なりの健やかさ
を持っていれば、"孤立"なんぞは無縁ではないのでしょうか。

邪念的感情を持った自分を叩く位なら外に出してもいいと思うの

運を寄せるというのでしょうか?ツキが離れないようには
ネガティブな言葉使わないなどと申します。悪口、愚痴、不満、
怒り、泣き言、ボヤキなどなど。

ふむふむ。世に言う成功者と呼ばれるーちゃろはこの言葉の確定的な
意味が今ひとつよくわからないですがー方々はあまり使っていない
ような気も致します。

で、パンピーが幸せになろう、素敵な人間になろうとして、
極力使わないようとする心構え。たいへんご立派ですし、異論は
ございません。

しかし、ネガティブな言葉を発したくなる感情、
自身の気持ちというものは?はてさて?
どうなさっているのでしょうか?



溜まったネガエネは既に出すと決めている!?

ゴジラ

邪念のような自他共に好ましくない感情を抑え込んで、
自他を叩いてしまう=ダメだとバッテンをつけるのなら辛いばかり。
とても幸福で心穏やかではないと思います。

抑え込むとちゃろさん的見解では(特に負の感情に対して)
無感覚になる危険性とネガのエネルギーはたまる一方。
それが長年に渡れば、心身になんらかの支障をきたし、
さらに思考も真っ当ではいられないというものではなかろうかと。

たまるエネルギーを仏教では業(カルマ)と呼ぶらしいのですが、
それはいつしか必ずや外に出てしまうものなんだそうです。最早、
出る、出す、と決めてしまった事のように。

「しまった!もっと違う言い方があったのに!Σ(∩˃͈ ╻ ˂͈ ∩)‼︎」

となるのも、業がたまった結果。怖い気も致しますが、決まっていた。

感情をコントロールしよう、心を豊かにしようという視点でないのが、
歴史のある思想でありながら、中々面白いなとちゃろの関心を引きました。

さららと流るがまま

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後悔や反省、お相手に対する申し訳なさはあるものの、
吐き出したことで業は一旦リセットされる。だから今後
そうならないように致しますし、徳を積む気にも自然になる

先述の幸せになろう、素敵な人になろうとナチュラルに
流れていくのではないでしょうか。すれば、幸福で心穏やか
ですから、罵詈雑言、ネガティブに「なりよう」がない

さらに快を求める性にうまく乗れば、あーら不思議!
いちいちネガティブな言葉を使うのは止めようとか、
邪念のような感情を抑え込もう、素敵な人にならねば意識、

言い換えればどこぞで聞いたお話(理論)に従おうと
頭で考えなくなるものです。

ちゃろ思ふ故

ちゃろ

もちろん、業はまた次第にたまって参りますけれど
ー長くなるので詳しく本エントリーには残しませんがー
どんな感情でも抑える、無くす、修行して邪念を湧かないように
という対処療法ではないこと。

そしてご自身の至らなさ、未熟さだけが原因ではないと覚えておく
のも気が楽かと。外に出し(怒り)たくないのではなくて、
業、ネガを出した人様に迷惑をかける「自分」=カッコよくない、
素敵でなくなるのが怖いのかもしれませんし。

理詰めでは息がつまります。
他人は良かれとご高説を唱えますが、それが我を押し付けている
場合もあり。その御仁はもちろん自覚がございませんし、
責任は取ってくれません、ハイ。

思ふがまま 流るるがまま
平穏たれ 安穏たれ 苦「少なく」
幸せであれ